前のBLOGから一年。サボりすぎた。
また命日だ。9年目。
今回はTwitterでスドーのことを過去から遡って呟いてます。
散文だけど、ここに貼り付ける。
まずは、伊東まで。
ベンベナッツの初代ベーシスト
スドートシヒコの命日。
享年39歳。皆さん、いろいろ思い出してやってください。
中学2年の文化祭。俺たちは「NEWタコイカズ」というバンドで出演した。
全校生徒がオーディエンス。体育館が破れんばかりの大合唱。
後にも先にもあれが最多の観客動員数やったな。。。
スドーはその時からずーっとベース。
別々の高校に入学。バンドは5ピースになり「THE ROOTS」と名乗った。
スドーだけ女子生徒数の多い偏差値上々の高校で、その他は厳しいだけの新設校。
毎晩、友人の親が経営する工務店に集いブルーハーツを熱唱し始める。
未来は僕らの手の中ー!
アミーという天神のライブハウスでライブをする時やったかな、
スドーが当時付き合っとる彼女を連れてきた。
とても可愛い彼女やったと思うが紫のストッキングしか思い出せない。
高校を卒業するタイミングでバンドは解散。
俺たち3人は浪人生、専門学生、大学生となった。
スドーは中学から家出少年だったが満を持してこの時から放浪者となる。
福岡では末ちゃん(末広尚義)や外山恒一さんや
「しらいんがた」や「George's BAR」でお世話になっていたらしい。
社会人になり帰省した時に、親不孝通りで弾語りをやっていたら
スドーがひょっこり現れた。数年ぶりの再会。
「still life」という曲をすごい褒めてくれた。
調子に乗って「きんもくせい」という曲をやったら
シラケた顔しやがった。
弾語りよりもバンドがやりたくなった。
そうだ!スドーを呼ぼう!
ベーシストの友だちがいないだけの理由だった。
電話でのスドーの具体的な返事は覚えてないけど
猫があくびをするようにあっけなくOKだった。
今度のバンドは3ピースで「satori」。
このバンド名はスドーが生涯やっていくバンドに付けたいと
ずっとヤツの中で温めていたもの。
渋谷のライブハウスGIG-ANTICにやたら世話になっていた。
RYOJIROCK(豊田良治)に出会ったのもこの頃だ。
唄以外はすべてスドーが上手。ギターの録音もスドーが弾いていた。
当時のドラマーには厳しい言葉でリズムキープを教えていた。
勝負できるバンドへ。あいつにとって「satori」はそんなバンドだったと思う。
1998年頃。
音源ミックスの時に大ゲンカをした。
スドーにとっては進むに進めないバンドの状態が
もどかしかったんやと思う。
公園で遊ぶ子供らをよそに、今後について二人で話し合いをした。
スドーに解散という言葉を言わせたのは俺のズルさだったと思う。
satoriを解散してスドーと連絡を取り合うことはなくなった。
数年は会っていなかったと思う。
俺はベースレスのバンド「KiRK」で活動していた。
再び会ったあいつは新宿のお酒の匂いをまとっていた。
KiRKの解散時期にやっちゃん(我らがベンベナッツGu.)とネットで知り合う。
お互い違う音に飢えていたと思う。
渋谷のスタジオでジャムってみることになった。
靖彦「いいドラムを連れて来るけど、いいベース知ってる?」
大作「いるいる!」
つまりガッツとスドーなわけです。
居酒屋かあさんだったと思う。
俺たち4人はバンド名を考えていた。
スドー「スタンダーズはどう?」。
靖彦がイタリア産のアメコミをパラパラめくって
「BENVENUTSは?」
スドー以外「いいねー!」
2002年10月ベンベナッツが30過ぎて産声をあげた。
ベンベナッツはライブと録音の2つのルーチンをぶん回していった。
スドーの音もさらに大きくなってゆく。
そしてSOUTH 2 CAMPと出会った。
彼らとパマネン、ユウスケさん、アキオミ(ROCKET)等と北海道へ。
確か初めてのツアーだ。
この頃からスドーとmomoちゃんの酒場での取っ組み合いが風物詩に。
そして舞台は伊東へ。
DERI DERIライブ(もちろんカレーも!)とコミュニティーFMの出演。輪っかが広がってゆく。
帰りのツアー車にスドーは乗っていなかった。
酔っぱらいにとってDERI DERIはどこよりも気に入った寝床となったようだ。
つづく